基本情報
まりん
1989年3月21日生まれ(36歳)
兵庫県出身
現在は東京で愛猫と一人暮らし
【現在の主な仕事】
・オンラインスクールのキャリアコーチ/カスタマーサポート
・司会/ナレーション
・チームマネジメント
・ショート動画クリエイター
【実績】
・1年で1000人以上のキャリア相談
・オンラインセミナーのファシリテーター年間70回以上
・50人規模のチームをマネジメント
・縦型広告の動画編集を担当し1本で400万以上の売上達成
・Instagram投稿作成代行・アカウント立ち上げサポート
・ショートドラマ企画プロデュース・監督
・生成AI講師として登壇
現在、私はフリーランスとして、WebやSNSを活用した集客サポートや
クリエイティブに関わる仕事に携わっています。
会社員のように「平日◯時〜◯時まで働く」という縛りもなく、
自分で時間をコントロールできる働き方。
収入も、前職派遣時代の手取り20万円弱の2倍以上を
安定して得られるようになりました。
好きな場所で、好きな仕事をしながら生きる。
そんな今の生活は、かつての私が何度も
「こんな働き方ができたらいいのに…」と願っていたものです。
今でこそ自由な働き方を手に入れましたが、
3年前までの私は真逆の場所にいました。
21歳で「役者として成功する」と夢を抱いて上京。
気づけば、33歳になるまで12年間長いトンネルの中を彷徨い続けていました。
思い描いた未来とはかけ離れた現実。
「このままでいいのか?」と思いながらも抜け出し方が分からずもがき続ける日々。
そして、この状態に苦しんでいるのは、私だけじゃないことも知っています。
夢を本気で追い続けてきたからこそ、30代という節目を迎えて
「諦めるべきか?でも、ここで諦めたら後悔するかもしれない…」と揺れ続けている人
変わりゆく周りの環境や不安に耐えきれず諦めていった人をたくさん見てきました。
そんなあなたに、この記事を読んでほしい。
私は今、自由な働き方を手に入れながら、
これまで培ってきた役者という表現力などの経験も活かしてキャリアアップし、
新しい仕事を開拓することができています。
だからこそ、これまで本気でもがいてきたあなたに、伝えたいことがあります。
典型的な人生迷子状態だった私が
どのようにして人生を180度変えることができたのか
この記事ではそこに至るまでの自分をリアルに話していますので、
ぜひじっくりと読んでいただけたら嬉しいです。
実現しなかったキラキラ青春時代

幼少期〜二十歳の頃までの地元神戸で過ごした時代の私は、
人と馴染むのが苦手な子どもでした。
小・中・高と、学生時代のほとんどを “仲間外れにされる側” で過ごしてきました。
気づけば一人ぼっち。 それが私の「学生時代」でした。
「普通」の青春を夢見ていた
「普通の青春」とはどんなものだろう?
当時の私は、いつも “キラキラした女子グループ” を遠くから眺めながら、
彼女たちのような日々を送ることを夢見ていました。
・ワイワイと女子トークをしながら帰る放課後
・たまに寄り道してクレープを食べたり、プリクラを撮ったり
・家に帰れば、今日の出来事を家族と楽しそうに話す
そんな “普通” を、心の底から手に入れたかった私は
何度も勇気を出して女子グループの輪に入ろうとしても
気づけばまたひとりぼっちになっていました。
昨日まで一緒にお弁当を食べていた女子グループ全員が
冷ややかな目で私を見つめたかと思うと、そそくさと離れていく。
その背中を見送るたびに、私は「あぁ、またか……」と、
目の前の景色から色が消えていく感覚を覚えていました。
なぜ、私は馴染めないのか
私はいつも考えていました。
「なぜ、私はみんなと普通に話せないの?」
「なぜ、馴染めないの?」
家庭でも、学校でも、私は 「普通」 になれませんでした。
家では、兄と比べられ「世渡りが下手」「頑固」「不器用」と比べられ
学校では「暗い」「ウザい」「キモい」と言われる。
何がいけないのか分からないまま、
私はどんどん人と話せなくなり、ますます自分の殻に閉じこもるようになりました。
でも、ただじっとしているだけでは何も変わらない。
私は 「どうすればみんなの輪に入れるのか?」 を研究し始めました。
人気者の法則
「人気者のあの子と同じ見た目や性格になれば、みんなと仲良くなれるかもしれない」
そう考えた私は、クラスの中心にいる女子を観察し、
「人気者の法則」 を自分なりに分析しました。
・明るい
・面白い
・気遣いができる
・頭の回転が速い
・おしゃれ
・可愛い&かっこいい
これらを実践すれば、自分も「普通」になれるはず!
そう信じて、まず私は外見を大きく変えました。
モサモサの黒髪をバッサリとショートに
分厚いハリポタ風メガネからコンタクトへ
ファッション雑誌を読み、流行を研究。
すると、一気に 「中学デビュー」 のような状態に。
学年全体がざわつき、私の存在に一時的に注目が集まりました。
しかし、
見た目が変わっても、内面はそう簡単に変わりませんでした。
話すと「なんか変」な女子。
そのギャップが目立つようになり、一時的な「ちやほや期」はすぐに終わりました。
結局、私はまた一人ぼっちに戻り、
「自分は何をやってもダメなんだ」 という絶望感を抱えるようになっていきました。
普通の人生を送れないなら、とことん変わった人生を生きてやる
世の中で一番辛いのは、
「生きているのに、存在しないものとして扱われること」 だと思います。
それなら、嫌われた方がまだマシ。
「嫌いな人」として頭の中に残る方が、 まだ存在意義がある。
「どうして私は、みんなにとって “いないもの” になるんだろう?」
そんな苦しさの中で、私を救ってくれたものがありました。
テレビの中に「私の居場所」があった
私は学校から帰ればいつもテレビの世界に没頭していました。
バラエティ番組では、笑い声が響き、みんな楽しそうに過ごしている。
音楽番組では、夢を叶えたアーティストが歌を届けている。
ドラマの登場人物たちは、悩みながらも、自分の人生を生きている。
テレビの中には、 私の知らない世界があり、心の拠り所になっていました。
そして気づけば
「自分もこんなふうに、テレビの前の人に勇気を与えられる存在になりたい」
という気持ちが芽生えるようになっていきました。
私が初めて「自分で決めた道」
その中でもなぜ、役者という職種に惹かれたのか?
主な理由は「自分の人生ではなく、さまざまな人生を生きることができる」 からでした。
役者は自分の経験や感情のすべてが、演技の糧になる仕事。
これが当時のわたしにとって希望の光となりました。
「普通の人生を送れないなら、とことん変わった人生を生きて芸能界で活躍するんだ!」
そう決意したのが中学に入って間もない頃。
これは、私にとって “初めて自分で選んだ道” でした。
・なぜ人は「普通」にこだわるのか?
・「人から必要とされる」には何が大切なのか?
・「馴染めない人」にはどんな共通点があるのか?
幼少時代の私はキラキラした青春時代を送りたかったけど実現しなかった。
でも、それがなぜなのか明確な答えは分からないままでしたが
この課題と向き合い考え続けたことが、今の強みになっています。
夢vs就職
中学の頃から芸能の道を目指し、何十社とオーディションに応募。
でも結果はすべて不合格。
必死に挑戦した夢は、報われることなく諦めモードへと移行していきました。
そうしているうちに私は高校生になり、近所のカフェでアルバイトを始めました。
学校では孤立していた私ですが、
カフェでは年上の先輩や店長、常連のお客さまと触れ合う中で、
初めて「居場所」を感じることができたのです。
そして迎えた進路選択の時期。
私は「学生生活をあと4年繰り返すなんてムリ」と感じて就職の道へと進みました。
そんな矢先に地元・三宮でモデル事務所の社長からスカウトされ
就職が決まった直後の出来事に、心は揺れましたが
「アルバイト感覚でいいから、まずはやってみない?」
その言葉に背中を押され、私は“夢を諦めず社会に出る”という選択をしました。
必要とされる場所を探して
就職先では副店長に抜擢されるも、
店長の厳しさと、またも職場で孤立してしまい心が折れていました。
でも、モデルの現場では少しずつ指名が増え、
こう言われることが増えてきました。
「あなたにお願いしたい。」

会社では怒られてばかりの私が、モデルの現場では必要とされていた。
その感覚が、私を何度も救ってくれた。
「私は、ここにいていいんだ」
——そう思える場所で私は生きたかった。
やがて店長とも信頼関係を築き、安定した日々を過ごす中で、
それでも心に残るのは、一度諦めた夢の残像でした。
「このままでは、一生後悔する」
必要とされる場所で、自分の人生を生きたい。
「役者として本格的に芸能界で活躍するんだ」
その想いが、私を上京という決断へと導きました。
がむしゃらに夢を追いかけた20代前半
21歳、貯金ゼロで上京。
ここから「生きること」と「夢」の戦いが始まりました。
前職は副店長という肩書きはあったものの、
給料は安く、ボーナスもない会社だったため、
貯金ができるはずもありません。
最初に必要だったのは、「生きる場所」と「働ける場所」でした。
家を借りる余裕などなく、審査が緩く初期費用がほぼ不要なシェアハウスを探し、
明日をしのぐためのアルバイトを探しました。
ただし、芸能の仕事は突然決まることもあります。
そうなると、融通の利く職場でなければ働き続けられません。
必然的に、選べる仕事は飲食店などの接客業に限られていました。
「何事も経験!」
そう言い聞かせながら、目の前にあるチャンスにはすべて飛び込むようにしました。
目まぐるしく環境は変わり続けましたが、神戸時代に比べれば東京は居心地がよく、
「ここなら、私でも何者かになれるかもしれない」と思えました。
がむしゃらに働き、芸能活動を続ける生活が始まりました。
芸能の道の裏側
バイトを転々としながら、芸能活動にも挑戦し続けましたが
現実は甘くありませんでした。
芸能の仕事を優先すれば、当然バイト先では居づらくなります。
急な休みが続けばシフトにも入れなくなり、やがて退職。
それを何度も繰り返していました。
それでも私は、あえて「人と接する仕事」を選ぶようにしていました。
芸能界で生きるためには、人前に出ることに慣れなければならないと思ったからです。
イベントコンパニオン、キャンペーンガール、受付など、とにかく人と関わる仕事を積極的に経験しました。
一方、オーディションでは、必ず自己PRを求められます。
しかし、当時の私は「特技」と呼べるものがありませんでした。
そこで、少しでも印象に残るようにと、
タヒチアンダンスや殺陣など、あまり人と被らない習い事を始めたりもしました。

とにかく、芸能界で生き抜くために必死でした。
しかし、そんな私を待ち受けていたのは、「芸能界の厳しさ」だけではありませんでした。
芸能活動編:夢を売る詐欺師
これは、神戸の事務所にいた頃からの話です。
芸能界との強いパイプを持つプロデューサーを名乗る男が
私の所属する事務所との提携を求めてきました。
その男は東京と関西を行き来していて
女優、モデルの卵を育てているとのこと。
事務所の社長も含め私たちはまんまと騙されていました。
「本気で売れたいなら、俺の特別ワークショップに来い。」
そう誘われ、私を含めた夢を追いかける女性たちは、
毎月1万円以上かかるワークショップ費を払いながら、そこに通い続けました。
しかし、実態はただの詐欺。
仕事の紹介どころか、
「レッスン」と称して最終的には女性をホテルに連れ込む卑劣な手口でした。
事務所の社長や被害に遭った女性たちと共に、詐欺の証拠を掴もうと奔走しました。
全員でヤツのいる東京・恵比寿の喫茶店に張り込み、録音機まで用意したりしましたが、
決定的な証拠を得ることはできませんでした。
最終的には泣き寝入りするしかありませんでした。
神戸行きの帰りの深夜バスの待合室での記憶は
淀んだ景色とともに記憶に残っています。
社長が項垂れ、被害に遭った女性たちがすすり泣く声。
被害に遭った1人である私もただ、立ち尽くしていました。
「私はもう汚れてしまったのかもしれない」
「もう芸能界を目指す資格はないのかもしれない」
怒り、悔しさ、悲しさ、絶望。
さまざまな感情がが入り混じる中で、ただ涙をこらえることしかできませんでした。
「私はもう、夢を追いかけられないのかもしれない」
という言葉だけが頭の中に響いていました。
「夢を奪われた」こと
これが私の原動力になりました。
この事件の後、被害に遭った女性たちは、芸能界への道を去っていきました。
心を病み、夢を諦めていきました。
しかし、私は違いました。
「絶対に売れてやる」
怒りがエネルギーに変わっていました。
お金を失ったことでも、心に傷を負ったことでもなく、
「夢を奪われたこと」 にどうしても耐えられませんでした。
純粋に「売れたい」と頑張っていた女性たちを食い物にし、夢すら踏みにじった。
その罪を許すことができませんでした。
そして、私自身にも恐怖が襲いました。
あのとき撮られた動画が、いつ流出するかわからない。
仮にドラマやCMに出たとしても、過去の被害が知られたら、
業界で生きていけなくなるかもしれない。
それでも、私は「泣き寝入りして諦める」という選択はしませんでした。
「この男のせいで、夢を捨てるなんて絶対に嫌だ!」
「この程度の経験、屁でもないほど売れてやる!」
私は、前に進むことを選びました。
バイト編:給料未払い、店長失踪
芸能活動を続けながら、バイトでも生計を立てていましたが
ここでもトラブルは尽きません。
ある日、いつものようにバイト先に行くと、店がもぬけの殻になっていました。
店長が飛んでいたのです。
給料1ヶ月分、約13万円が未払い。
当時の私にとっては、命綱のような金額でした。
狂ったように感情に任せて何度も店長の携帯に電話しました。
(一日300回くらいかけまくる日々を1週間くらい続けていました。一度だけ向こうが押し間違えたのか電話に出たけどすぐに切られました笑)
渋谷の税務署に相談すると、勤怠管理は手入力のみという状況に
「証拠がないから、泣き寝入りするしかないね」という端的な言葉が返ってきました。
その言葉を聞いた瞬間、すべてがどうでもよくなりました。
「自分がここを選んだのが悪い」
そう思うしかありませんでした。
帰り道、母に初めて「お金を貸して欲しい」と電話で事情を話しながら
搾取され続ける自分の不甲斐なさに涙を堪えきれずに
泣きじゃくったことを覚えています。
シェアハウス編:突然の退去通告
夢を追う生活の中で、私の住む場所も安定しませんでした。
最初に住んだのは、京王線沿いの家賃3万円のシェアハウス。
7階のマンションの一室を、薄い板とカーテンで区切った3畳ほどの部屋でした。
当時の部屋のイメージ
半年ほど経った頃、運営から突然の退去通知が届きました。
今月末までに移動をお願いします
引っ越しの猶予はたったの2週間。
選べる選択肢も無く、
今度は小田急線の家賃3万円のシェアハウスに移り住みました。
そこも、隣との壁は薄い板とカーテンのみ。
プライバシーはほぼゼロでした。
今考えると明らかに違法の運営をしているシェアハウスだったとわかります。
でもその時の自分にはそんなことどうでもよく
気にしている余裕はありませんでした。
住環境がどうであれ、
私には「役者になるという夢を叶える」という目的があったからです。
「ここに長くいるつもりはない。いつか、もっと良い場所に住む。」
そう思いながら、バイトとオーディションを繰り返しました。
こんな生活を続ける中で、私の神経は強くなっていきました。
理不尽なことも、悔しいことも、すべて糧にするしかありませんでした。
「幼少期の孤独よりマシ。目指すものがあるなら、耐えられる。」
そうやって自分を奮い立たせながら前に進んでいきました。
そして、26歳。
ようやく「チャンス」と呼べる出来事が起こります。
華やかな芸能界の仲間入り
夢が現実になりかけた27歳
事務所には所属していたものの、
オーディションに呼ばれるのは週3〜4回。
ありがたいことにチャンスはあったものの、
最終選考まで残り、実際に撮影まで進めるのは月に1〜2回あればいい方でした。
「このままじゃ、役者だけで食べていくなんて到底無理だ」
それでも、自分でオーディション雑誌を買い、片っ端から応募を続けました。
そんな中、とある自主映画の主演に決まりました。
結局、その作品が世に出ることはありませんでしたが、
この小さなチャンスが、数年後に大きな転機を生むことになったのです。
3年後——。
突然、Facebookに1通のメッセージが届きました。
今度、自分が映画を撮るので、ぜひ出演してほしい。
送り主は、3年前の自主映画で助監督をしていた人でした。
たった1本の小さな作品にも関わらず、私を覚えてくれていて、
しかも直接オファーしてくれたことが何よりも嬉しかった。
もちろん、迷わず出演を決意。
そして、この作品は後に「東京国際映画祭」にノミネートされました。
無名の監督による自主映画が映画祭で評価されることは珍しく、一躍、業界内で話題に。
私はメインキャストとして映画祭の祭典に参加し、
関係者しか入れない打ち上げにも招かれました。
初めて味わう、華やかな芸能界 の空気。
有名な監督やプロデューサーたちが、監督やキャスト陣のもとへやってくる。
彼らの話す内容は、知らない映画や監督の名前、映像業界の話ばかり。
私は必死でした。
わからない単語はすぐにスマホで調べ、どうにか会話に入ろうとしました。
「ここに馴染めるようになったら、私は本当に役者として生きていけるのかもしれない。」
そう思いました。
この映画祭をきっかけに、事務所での仕事も増え始めました。
WEBやCMのモデル案件だけでなく、舞台の仕事も決まり、1年間で3本の舞台に出演。
映画は当初1館のみの上映予定だったものの、反響が大きく、全国での上映が決定。
私は毎日のように映画館で舞台挨拶をする日々を送っていました。
舞台挨拶で意気揚々と話す私
そして——。
地元・神戸の映画館で、自分の出演した映画が公開されることに。
家族の前で、舞台挨拶をする。
その瞬間、「やっと夢が叶った」と思いました。
評価されたのは私ではなかった
しかし、「私自身」が評価されたわけではありませんでした。
映画は評価された。
でも、私は「作品に出演していた人」でしかなかった。
メインキャストとはいえ、出演シーンはわずか3シーンほど。
正直、自分の芝居が評価されたとは思えませんでした。
次の映画やドラマの話は、ほぼありませんでした。
事務所の仕事は初期よりは増えていたものの、
アルバイトなしで生活できるほどの収入にはならない。
気づけば、29歳。
30歳を目前に控えた私は、ふと冷静になりました。
「このまま、何も変わらなかったら?」
不安が、一気に押し寄せました。
手に職をつけないと、マズイ。
30歳になりようやく現実を直視し始めます。
このまま続けていたら、どうなる?
30代、40代になったとき、私は何をしている?
ずっとバイトを掛け持ちしながら、役者の仕事を待ち続けるのか?
そんな未来を想像した時に、何よりも 「精神が持たない」 と感じました。
「好きなことを続けるためにも、生活の基盤を整えよう。」
そう決めて、アルバイト掛け持ち生活をやめることにしました。
手に職をつけて、収入を安定させ、好きなことに没頭できる時間を増やそうと。
そこで行き着いたのが 「IT業界」 でした。
本当はWebデザイナーのような
少しでもクリエイティブに関わる仕事がいいなと思いましたが
専門学校に通ったわけでもなく、美術的なセンスもない。
その結果 「ITなら安定しそう」 というなんとも軽めな理由で、
SES(システムエンジニアリングサービス)を提供する会社に就職しました。
SESとは、
IT企業に雇われながら、クライアント企業に派遣されて働くスタイルのこと。
私は「プロジェクトのサポート業務」として配属されましたが、
実際は派遣事務員のような立場でした。
しかし、この選択もまた、現実の厳しさを思い知らされることになります。
タイミングが悪かったね
「タイミングが悪い。」
これまでの人生で、何度この言葉が頭をよぎったか。
転職した直後にコロナ禍が始まりました。
SES会社の社長は、はっきり物を言う人で、
派遣先の面談に行く度にこう言われました。
「本当にタイミングが悪かったね。」
コロナ禍ということもあり、
未経験で私が希望していた在宅勤務の仕事を探すのはほぼ不可能。
求人自体が激減し、正直選べる余地はありませんでした。
結局、私が配属されたのは「ただそこにいるだけでいい」
というような誰でもできる受付やアシスタント業務の仕事でした。
プロジェクトマネージャーのサポートとして配属されたものの、
仕事はほぼなく、1日7時間以上ただパソコンの画面を見つめて過ごす日々。
片道2時間、往復4時間の通勤。
同じ時間に起き、同じ道を辿り、同じ場所に行き、ただ時間が過ぎるのを待つ。

「役者になるために上京してきたのに、私は何をやっているんだろう?」
ここに来ても結局この言葉が頭に何度もよぎり
この仕事に就いて半年が経ったころ、完全に心が折れました。
「このままあと2年半も続けるなんて無理だ」と思い始め
「もう辞めたい」と社長に相談したら
返ってきたのは厳しい言葉のオンパレードでした。
「未経験で年齢の賞味期限過ぎてる人材を雇ってくれるところなんてないよ?」
「これまで自由に生きてきたんだから、3年くらい我慢しなよ。」
言葉の一つ一つが突き刺さり、悔しさとともに言い返せない自分がとても悲しかった。
「たしかに、何もスキルがない自分に選択肢なんてないのかもしれない」
絶望感がその後に押し寄せました。
抵抗する気力もなくなり、
私はただ淡々と、心を無にして働くようになりました。
でも、このまま人生諦めたくない。
そんな風に悶々としていたある日、ふと目にしたInstagramの投稿が
私の人生を大きく変えることになります。
365日、旅をしながら働く女性
何も考えず、ただ1日が終わるのを待つ。
そんなとき、通勤電車でぼーっと眺めていたInstagramで
ある投稿が目に入りました。
「365日、旅をしながら働く女性の話。」
その投稿に強く惹かれ、プロフィールを開きました。
「SNSを活用してPC一台で仕事をしています!」
「SNSを仕事にする?そんなことができるのか?」
でも、この女性は実際にそれを実現していた。
しかも、もともとスキルゼロで、タイピングすら満足にできなかったらしい。
「これなら、私でもできるかもしれない。」
その日から、彼女の投稿を毎日追いかけるようになりました。
そして、「リモラボ」というオンラインスクールの存在を知りました。
WebやSNSを活用し、リモートワークで自由な働き方を手に入れるためのスクール。
こんな働き方を初めて知り初めは戸惑いましたが
ここで本気で頑張れば、道は開ける。
そう信じて私は 「ゼロからの再スタート」 を決意しました。
リスタート〜これからの挑戦
夢もキャリアも諦めない生き方
「本当にやりたいこと」に気づいた33歳。
あれから3年。
私は、毎月40〜50万円の収入を安定して得られる生活を手に入れました。
完全在宅ワーク。
愛猫と一緒に、お気に入りのBGMを流しながら仕事をする。
気が向いたら、カフェに行って気分を変えてみる。
あの頃、「自由な働き方なんて一部の特別な人だけのもの」と思っていた私が、
今こうしてその生活を実現できているなんて——。
ゼロからの再スタート

33歳の8月。
半年後に派遣契約が終了することは決まっており、
私は「0からフリーランスになる」と決意しました。
リモラボでInstagram運用代行のスキルを学び、
プロのアドバイスを受けながらインスタの毎日投稿を開始。
すると、開始3ヶ月目で初案件を獲得。
そこから、新規案件・単価アップを重ね、派遣の契約終了と同時にフリーランスへ移行。
在宅でキャリアアップを実現
これまでの接客経験や芸能活動で培ったスキルが活き、
・オンラインセミナーの司会
・カスタマーサポート
・動画編集
など仕事の幅を広げていきました。
そして今では、約50人以上のメンバーのマネジメントや教育を担当。
気づけば、時給2,000円台も実現し、全てが良い循環に回り出しました。
借金完済後に見上げた空
とはいえ、最初の1年間は借金返済 にすべてを注ぎました。
派遣終了時点で、まだ300万円以上の借金 があったからです。
そして、フリーランス1年目の終わり、最後の返済を終えた瞬間。
ATMの扉を開け、外に出たとき——。
「私、ついにここまできたんだ…!」
見上げた空は、今まで見たどんな景色よりも広く、解放的でした。
「妥協した人生」の卒業
気づけば、私は「妥協した人生」を卒業していました。
借金を完済し、生活が安定したことで、
私は本当にやりたかったことを思い出しました。
「なんで今まで気づかなかったんだろう?」
やりたいこと、挑戦したいこと、叶えたい未来——。
それが次々と浮かんでくる。
「そうだ、私ってこんなにやりたいことがあったんだ!」
これからの挑戦
今年から、新たな挑戦を始めました。
それは、ショートドラマの企画を立ち上げること。
表現活動を通して、自分の創造性を発揮し、人の心を動かす。
思えば中学の頃から持ち続けてきたこの思いは、
今も変わることなく私の中にあり、
今、その本質的なビジョンを叶えるために
さらにフェーズを上げ、新しい挑戦に踏み出しています。
今回の挑戦の大きな違いは、「自分で立ち上げ、メンバーを集めて動かすこと」。
これまでのキャリアは、クライアントの指示のもと積み上げてきたものが中心でした。
しかし、私が理想とする未来を考えたとき、
「一歩先に進む必要がある」 という課題に直面しました。
そして迎えた第一回目の撮影。
私は人生で初めて、監督というポジションを担いました。

「もう安定した生活を手に入れたんだから、このまま続ければいいのに。」
そんな声も聞こえてきそうですが
フリーランスに安定なんてない。
いや、むしろ、現状維持は衰退。
どんな職業だって、同じ仕事を続けているだけでは成長できない。
時代が変わり、環境が変わる中で、常にアップデートし続けることが大事。
だから私は、挑戦する。
どうなるかなんて分からない。それが楽しい!
自分でコントロールできる人生
今このブログを読んでいる方の多くは30代の女性だと思います。
キャリアを積んできたけれど、これからの生き方に不安を抱えている。
このままでいいのか、自分には何ができるのか迷っている。
実際、私はカスタマーサポートやキャリアコーチとして、
何百人という女性のキャリア相談を受けてきました。
公務員や安定した会社員でさえ、将来に不安を感じ、
働き方を変えようとしている人が増えています。
私は、そんな「誰かに人生を決められる生き方」ではなく、
「自分で選び、アップデートし続ける人生」の方が、
ずっと楽しくてワクワクすると思うんです。
今まだ迷っている人へ届くように立ち上げたこのブログも、
ショートドラマ企画も、どうなるかは分からない。
でも、それでも、
やってみたいという気持ちに素直になれる人生が最高だと思っています。
そして、そのやってみたい気持ちになった時に
金銭的理由であったり忙しいなんて理由で諦めることなく
いつでも挑戦できる環境が整っていることが大事ですよね。

さいごに
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
私の幼少期〜30代までを詳細にお話ししてきましたが、
結構なポンコツっぷりをお分かりいただけたかと思います。
そんな私が今の働き方になってやっと、
夢もキャリアも諦めない人生をリスタートさせることができました。
ここまで読んでいただいて、
私もリスタートしたい!と少しでも思ったのであれば
今後もこのブログに遊びにきてくれると嬉しいです。
私がリスタートに踏み切れた
WebやSNSの分野でのフリーランスという働き方
についての詳細をこれからお伝えしていきます。
そして、これからの挑戦に関してもみなさんにシェアをしていくので
ぜひこ今後私がどうなっていくのかという様も
楽しみながら見てくれると励みになります!
このブログで主にどんなことを発信していくのか、についてはこちらの記事で
より詳しくお話ししているのでぜひお時間ある時に覗いてみてくださいね!